傷だらけのSilver






夕暮れ時の部屋は薄暗く静かだった。

 街外れの古びた貸し宿の一室で、リナはくったりと寝床に身体を投げ出し、
自らの左手を眺めていた。

開いた左手の薬指、そこに嵌った細身のシルバーリング。
 ずっとつけていたためかすっかり指に馴染んで外せなくなった。

 そろりと右手で触れても、金属特有の冷たさは感じなかった。
リナの体温を宿した指輪は『既にリナの一部になっているのだから』と訴えているようだった。

 「……外すには、切らなきゃだめかな」

 彼女の呟きに力はなく、落とす視線もまた輝きを忘れたようにどこか遠く、儚い。
 かつて彼女が纏っていた生命力の塊のような気配はいずこかに消えうせ、
今、こうしてここにいるリナは抜け殻のようだった。






 ―――手入れを怠った銀は、たやすく輝きを失いくすんでゆく。
 時を経るに従い、黒く、黒く。
 殻のように表面だけを酸化させ、内側に華やかな白銀の輝きを閉じ込めて。
 誰にも見せないようにひっそりと朽ちていく―――






 結論を先に持ち越したリナは、味気ない夕食を終えて自室に戻った。

 宿の者が灯したのだろう獣脂の明かりが気に入らなくて、
ぼそぼそとライティングの呪文を唱える。

 光量を抑えた分、持続時間を長く。

 どうせ今夜もロクに眠れやしないのだ、ならば最初から朝まで保つようにすればいい。



 腰掛けた寝台は軽く軋んでリナの身体を受け止めたが、
その感触は冷たいだけでちっとも安らげそうにない。

 『失ったものの大きさに気付くのが遅すぎたのよ』

 そう呟いて笑おうとしたが、ぎこちなくしか動かない頬と唇が彼女の強がりを拒絶する。

 左手の指輪が鈍く輝いたのを見て、リナは身体の内に凝っていたものが
溢れそうになっているのを知った。

 ギッと奥歯を噛み締めて、叫びださないよう両手で口を塞ぎ瞼を閉じる。

 大丈夫、大丈夫。あたしは、まだ大丈夫。
 幾度かの深呼吸と呪い事を繰り返すうちに、ゆっくりと落ち着きを取り戻していく身体。

 「……ほんと、しょうがないわね」

 唇に触れる硬い感触、薬指のシルバーリング。あの日以来、
手をかけずにいたもんだからすっかりくすんでしまって。

 「いいかげん、諦められればいいのに」

 指輪を見るたび、触れるたびに胸の奥から湧き上がるひりつくような衝動も、
いつの日にか重ね続けた苦笑いと一緒に上手にやり過ごせるようになると思っていた。

 時間の経過がいつかあの日の気持ちを心の奥深くに眠らせてくれるものだと
ずっと信じていたのに、どんなに新しい記憶の山を築いても築いても、
最後には砂礫の底から黄金色の輝きが姿を見せることを思い知らされた。

 瞼を閉じるだけで容易く思い出せてしまう、広い背中とその上を流れ落ちる黄金色の髪。
 軽くあげた右手、穏やかな面差しと視線で包み込んでくれるような優しい色の青い瞳。
 穏やかな笑みを浮かべてあたしを見て、「じゃああとでな」って。
 無条件にあたしを信じてくれていただろうあの人は、今どうしているのだろうか。



 ―――彼と。
 ガウリイと別れてどの位経っただろう。

 一人旅に戻ってからも、何かがあるたびいつも右の後ろを窺ってしまったり、
良く似た背格好の人をつい目で追っている自身に気付く。

 彼と一緒に過ごした日々の記憶と温かく包み込むような彼の気配を、
こうして別れた今も身体に染み付いて忘れられないのだと認められるまで、
こんなにも時間がかかってしまった。

 「けど、さ。 あたしに都合の良いような綺麗な思い出にするのもね」
おこがましいと思っちゃうのよ。

 誰に言うでもなかったろうリナの言葉を、くすんだ指輪だけが受け止める。

 「ね、あんたを手放せばいつかはあいつを忘れられるかしら」

 くるりと回転させた指輪、手指に馴染みすぎた指輪。

 ガウリイから貰った、大切だった指輪。

 照れ臭そうに笑ってつけてくれた、世界で唯一つのもの。



 荷物袋の中から磨き布を取り出してくすんだ指輪を撫でていく。

力は篭めないで、優しく、優しく。

 すると、さっそくくすみの中から顔を覗かせた銀色の輝きに、口元が綻んでいく。

 丁寧に、隅々まで磨き上げてやろう。
 つけたままだから内側は無理でも、触れられるところは全部綺麗に磨き上げてやりたい。

 ―――そうして、ガウリイにもらった時と同じ輝きを取り戻したら。
 この手で壊して、そしてどこかに埋めてしまおう。
 彼を愛した気持ちを葬るように、この指輪を身代わりにして。
 


 「……なによ」

 手が、止まる。

 「ちっとも、綺麗にならないじゃない」

 震える呟きと共に、リナの手から磨き布が落ちた。

湧き上がる涙でぼやけていく視界の先で、細かな傷を抱えたままの銀色が
何かを訴えかけるように輝いている。


 震える唇を指輪に押し付けて泣くうちに、いつしかリナは眠りの海へと沈んでいった。